ユーリエフ・ポリスキー (Yur’yev-Pol’skiy)
州都ウラジーミルから北西68kmの位置にあり、クリャージマ川支流のコロクシャ川上流に面する. 人口は、2002年国勢調査で19,906人(1989年調査では22,247人).
ユーリエフ・ポリスキーは、1152年にユーリー・ドルゴルーキー公により建設された. ユーリエフとは、ユーリー公の守護聖人である聖ゲオルギウスを意味しており、一方ポリスキーは「草原の」を意味し、この地方の名称でもある(オポーリェ地方、別名ザリエーシェ地方). これは他のユーリエフを称する町との区別のためにつけられていた(エストニアにある現在のタルトゥは、当時はユーリエフと呼ばれ、森に囲まれた要塞都市であった). 同時期にユーリー・ドルゴルーキーによって作られたとされる町々と同じく、ユーリエフ・ポリスキーも中心にクレムリ(城塞)のある城郭都市であった.
1212年のウラジーミル・スーズダリ大公フセヴォロド3世の死後、ユーリエフ・ポリスキーは六男のスヴャトスラフに与えられた. 1216年にウラジーミル・スーズダリ大公の座を巡り行われた大規模な戦闘・リピツァの戦いはこの付近で起きた. スヴャトスラフは現在のユーリエフ・ポリスキーの町のランドマークともなっている聖ゲオルギウス聖堂を建設させた. これはモンゴル帝国のルーシ侵入以前に立てられた最後の石造建築で、石の彫刻の多さでは先例がないほどであり、モスクワのクレムリンにおける最初の石造の聖堂のモデルにもなった. 1460年代に聖堂の屋根が崩れ、聖堂の壁に飾られていた彫刻の多くも失われたが、屋根は1471年にモスクワ大公国の建築家ヴァシーリー・イェルモリンにより修復されている.
1238年にはユーリエフ・ポリスキーはモンゴル軍により略奪・破壊され、その1世紀ほど後にモスクワ大公国に併合されているが、モンゴル軍により破壊されたまま長らく再建されず、16世紀頃から大天使ミハイル修道院の再建とともに町並みも再建されていった. ユーリエフ・ポリスキーはスーズダリ地方とモスクワとを結ぶ街道沿いの交易拠点として栄えたが、主な産業は農業であった.